この記事では、光と影の魔術師とも呼ばれたレンブラント・ファン・レインについてご紹介していきたいと思います。
あなたは、オランダ出身の画家といえば誰を思い浮かべますか?
ピーテル・デ・モリンや、シモン・デ・フリーヘルなど名だたる有名な画家がいるなかで、最も活躍したと言われているのが「レンブラント・ファン・レイン」です。
17世紀はオランダ絵画黄金期として、有名な時期でもあります。
レンブラント・ファン・レインの作品は、とても繊細で細部まで描いた美しいものばかりです。
レンブラント・ファン・レインの生涯
1606年の7月に中流階級の9番目としてこの世に生まれます。
レンブラント・ファン・レインが生まれた当時、オランダはスペイン領にあり独立する前の時代でした。
ライデンの3番地に住んでいた、製粉業の家でした。父親が所有していた、製粉の風車小屋が旧ライン川を沿うようにして流れており、ファンレインの名前の由来になったといいます。
1613年には、ラテン語の学校に入学し14歳のときに飛び級でライデン大学の入学許可を得るほど、優秀な人物だったと言われています。
兄弟がたくさんいるなかで、レンブラント・ファン・レインのみが進学し、他の兄弟は実家を継いだそうです。
ただ、数ヶ月で退学し当時、画家になりたいと考えたレンブラント・ファン・レインですが、美術学校などはありませんでした。
そのため、歴史画家として有名なヤーコブ・ファン・スヴェーネンブルフに弟子入りして、美術について学んだと言われています。
ただ、あくまでも基礎的な部分を学んだだけで、絵のテイストなどは全く異なります。
18歳になるとオランダ最高の歴史画家として有名なピーテルラストマンに師事し、たくさんの技法や表現について学びます.
その後、実家にアトリエを構え、1628年には弟子を集うまでになります。
このときすでにレンブラント・ファン・レインは頭角を現し始め、多くのファンがいたといいます。
富と名誉を欲しいがままにしたレンブラント・ファン・レインですが、次々と子供を病気で亡くし妻も結核で失うことになってしまいます。
女性関係や、自身の浪費癖などもあり金銭的な苦労も絶えなかったと言われています。
晩年は質素な生活をして過ごしていましたが、1669年10月に亡くなりました。
レンブラント・ファン・レインの魅力
レンブラント・ファン・レインは多方面に優れた絵を描いたことでも知られています。
肖像画や、宗教、物語、風景などのテーマを主に描き、繊密に描く描写は高く評価されるまでになりました。
初期の段階では比較的滑らかな技法を用いた絵をメインとしていましたが、徐々に荒々しさも感じられるような手法へと変わっていきます。
作品のなかの物語性を追求していたこともあり、他のオランダ画家とは一線を画する作品を生み出しました。
オランダのバロック期を支えた人物でもあり、光と影など明暗をより明確にした技法に卓越していました。
人生を絵画にかけたといってもいいぐらい、たくさんの作品を残しています。
現存しているものだけでも、絵画は500点以上、エッチングが300点にもなります。
さらに素画は1000点以上と、驚くほどの作品数です。
また、版画の技術にも長けていたと言われており、1649年前後は特に力を入れていました。
美術史上最高とも言われる高い技術を持ち、絵画の表現方法を模索するためでもあったのだとか。
どれも革新的な絵を描き、弟子の指導にも役立てました。
版画を使って莫大な収入をえるなど、仕事として成立していたようです。
他にもレンブラント・ファン・レインといえば、肖像画を描き続けた人としても有名です。
どうしてここまで肖像画にこだわったのかはわかっていません。
見た目の変化などはありますが、人間として年齢を重ねるごとに増える深みなどの内面を描くために、自身を描き続けたのではないかと言われています。
何よりも身近で一番知っている人物といえば、自分以外にはいませんよね。
これらの経験があったからこそ、レンブラント・ファン・レインの作品はとても奥深く、何度見ても飽きることのない魅力的なものがたくさんあるのだと思います。
オランダだけに問わず、これだけの作品を描き、残してきたのはすごいことですよね。
レンブラント・ファン・レインの作品
レンブラント・ファン・レインの数ある作品のなかでも、特におすすめのものを紹介します。
夜警
1642年の作品になり、現存作品のなかでも最大サイズのものとして知られています。
最高傑作として有名なのもあり、一度は見たことがあるかもしれません。
夜警とありますが、実は昼間を描いた作品です。
アムステルダムの名士として有名なコックより、集団の肖像画を描く依頼を受け作成しました。
彼の地位を裏付ける作品でもあり、画家としてのすべてをかけていたともいいます。
ドラマティックな物語を含む作品としても話題になり、光と影の美しさや明暗をもたせる技法は、レンブラント・ファン・レインなくしてできないものです。
彼の技法のすべてを注ぎ込んだ作品といっても過言ではありません。
トゥルプ博士の解剖学講義
1632年に制作した、こちらも有名な作品です。
実際に行われた講義でニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士により切開した、腕が描かれており、腱を使って筋肉組織について教えている姿が描かれています。
実際に話しを聞いている人のなかに医療従事者はおらず、街の名士だけだったそうです。
ここに描かれた死体は、絞首刑になった人物で本当に実在していました。
集団肖像画としても珍しい内容を描いているなかで、賛否両論が生まれた作品でもあります。
彼の出世作となったものになり、完成後は、外科組合の会館にあげられることが決まっていたこともあり、またとないチャンスだったそうです。
依頼内容には完璧に答えつつも、より水準の高い作品を作り上げるのはさすがです。
カプチン派修道士に扮するティトゥス
1660年に制作されたものになり、ティトゥスが修道服に身を包んだ姿が描かれています。
彼を唯一そばで支えた息子のティトゥスは、結婚したもののたった半年ほどで亡くなり、その娘であるコルネリアとともに家に閉じこもったといいます。
あまりの憔悴ぶりに、口にするものはわずかなパンとチーズだけだったそうです。
結婚相手のマグダレーナも亡くなり、このときの気持ちを絵に表現したと言われています。
まとめ
レンブラント・ファン・レインは、神童と呼ばれるほどに、美術の才能に長けていた人物です。
その作品からも、どれも愛情を持って丁寧に描いていたことが伝わってきます。
ただ、人生のなかでたくさんの悲劇も経験しています。
絵を描くことで悲しみを紛らわせていたのかもしれません。
レンブラント・ファン・レインは人間の心を描いたような、深い作品が数多く残されています。