有名な画家たちには、妻もしくは支えてくれていた人たちがいます。
素晴らしい作品が描ける理由は「才能があるから」と考えがちですが、才能とは描き続ける根性とあきらめない心なのではないでしょうか。
そして、根性とあきらめない心を支え続けるには、こわいくらい強く、こわいくらい愛してくれる人が必要なのかもしれません。
年老いた夫のため? 絵のため? 奥村土牛の妻|画家の夫を有名にした妻たち
奥村土牛は明治22年生まれの日本画家です。
胡粉を刷毛で数百回も塗り重ねて繊細な色を表現しました。
代表作は1959年70歳のときに発表した「鳴門」です。
徳島県の鳴門の渦潮を描いた作品です。
何色ともいえない緑色の画面の中央に白く渦巻く渦潮が迫力満点に描かれています。
奥村土牛の妻は、夫が有名になる前から彼の画家としての制作活動を支えていました。
男の子4人と女の子3人というたくさんの子どもたちを育て上げた母であり、画家の妻として「たくましい妻」であったことは容易に想像することができます。
鳴門の渦潮をよく見るためには、船に乗る必要があります。
奥村土牛も鳴門の渦潮を船の上からみていました。
そして奥村土牛は、妻に船上で「渦潮を描きたい」といいます。
それを聞いた妻は、奥村土牛の着物の帯をつかんで海面がよくみえるように夫の体を押し出したのです。
たしかに「鳴門」に描かれている渦潮は船の上から遠巻きに見ていたのでは描けない迫力があります。
しかし70歳の老人を船の端に押し出すことは「強い妻」にしかできないことかもしれません。
奥村土牛は101歳でこの世を去ります。
のこされた妻と子どもが、莫大な相続税が支払えず残された作品のいくつかを燃やして処分したエピソードは有名です。
「作品を売って相続税を払えばよかった」という人もいます。
しかし二束三文で夫や父の作品を売り飛ばすくらいなら自分の手で燃やす方がいいと考えたのかもしれません。
夫を思う強い気持ちを持った妻や子どもだったからこそできたことなのではないでしょうか。
だんだんこわくなる!サルバドール・ダリの妻|画家の夫を有名にした妻たち
ダリは、自分の妻のことを「私の母であり酸素」「私を現実から守ってくれる殻」と言っています。たしかにダリの妻はダリを有名にした人です。
ダリが売れない頃からダリに寄り添い、アメリカでダリを売り出します。
作品を売るためにダリの外見も変えさせ、ダリのために本の読み聞かせもしていたのです。
そんな妻をダリは大切に思っていました。
ダリの作品には妻をモデルにしたものがたくさんあります。
どれも実年齢よりも美しく描かれたものがほとんどでした。
しかし、妻はダリが有名になると豹変します。
お金になる絵ならば完成するまでダリをアトリエに閉じ込め、お金にならない絵ならば例えダリが描こうとしても描くことを妨げたのです。
徐々にダリが描く妻の顔は暗くなります。
ダリの妻はダリよりも早くこの世を去ります。
そのときダリは「人生の舵を失った」といい絵も描かなくなりました。
ダリが有名になれたのは妻の舵のおかげであったことは確かでしょう。
しかし生きる力や描く力までもコントロールされていたとはちょっとこわい気がします。
ダリ自身も妻のこわさに気がついていたのかもしれません。
しかし気がついたときには、すでに妻の舵なしでは生きられないようになっていたのでしょう。
夫への愛がこわい!モディリアーニの妻|画家の夫を有名にした妻たち
モディリアーニの妻といっても正式には結婚していません。
18歳の画学生でモディリアーニが35歳のときに二人は出会っています。
二人はわずか3年ほどのつきあいでしたが、モディリアーニは3年間でたくさんの妻の肖像画を描いています。
言い換えれば、モディリアーニに多くの作品を描かせた女性です。
しかし、モディリアーニは35歳で病死します。
そして妻は翌日、5階から飛び降りてこの世を去ります。
妻とモディリアーニの間には、まだ1歳の子どもがいました。
そして妻のお腹には9か月の子どもがいたのです。
いくら夫を愛していたとしても小さな子どもをのこし、さらに子どもを道連れにしていくことはこわいというよりも残酷な話です。
一説には、モディリアーニが息を引き取る直前に妻にむかって「天国までついてきてくれないか」と言ったと言われています。
のこされた当時1歳の子どもは両親について知らされず、モディリアーニの妹に育てられます。
モディリアーニと妻は正式に結婚はしていなかったため、妻の両親によって別々の墓に埋葬されました。
しかし10年後に妻の墓をモディリアーニの隣に移動しています。
モディリアーニの妻は、モディリアーニへの愛が深かったのかもしれませんが、子どもが真相を知ったとき、どのような思いをしたのかと考えてしまいます。
番外編:マネの弟の妻モリゾ
モリゾは印象派の画家です。
同じく印象派を代表する有名な画家マネのモデルでした。
しかしモリゾ自身は「モデル」ではなく、自分はマネの「弟子」と言っていました。
当時は女性が働く時代ではなく、マネは女性であるモリゾよりも男性の弟子の指導に力を入れていたのです。
それでもモリゾはマネの反対を押し切って第一回印象派展に自分の作品を出品し注目を集めます。
さらにモリゾは、マネの弟と結婚するのです。
さすがのマネも弟の妻であり、名を上げていくモリゾを認めざるを得なくなります。
モリゾは、夫を有名にしたのではなく、夫によって有名になったわけでもありません。
自分の力で自分の作品を認めさせたこわいくらい強い妻かもしれません。