絵のテイストにはさまざまなものがありますが、19世紀のフランス、パリでモダニズムな生活風景を描いた画家として有名な人物、エドゥアール・マネを知っていますか?
豊かなひげが印象的な画家です。
卓越した技術の持ち主としても知られ、近代美術の創始者としても讃えられている人物です。
この記事では、意外と知らない画家、エドゥアール・マネとはどんな人物なのか、ご紹介していきたいと思います。
エドゥアール・マネとは?
エドゥアール・マネは、パリの上流階級の家に生まれました。
現在のナポリ通りにあるソーギュスタン通りの大邸宅が彼の生家になります。
父親は、フランスの裁判官として活躍した人物になり、母親は、外交官の娘でもあり、お嬢様として生活していました。
まさに将来を約束された家庭で生まれたのが、エドゥアール・マネでもあるのです。
家柄の良さもあり、できることなら法律関係の仕事に従事してほしいと期待していました。
ただ、幼少期の頃より母方の叔父が絵描きになることを進め、美術館に連れて歩いていました。
その影響もあり、エドゥアール・マネ自身は自分が絵描きになると決めていたようです。
カレッジ・リセ・ジャック・ドクールに入学すると、特別クラスで学ぶようになります。
エドゥアール・マネに海軍に進んでほしいと願っていた父親も、不向きであると判断し諦め絵かきとして食べていきたいと話す、本人の希望を尊重したといいます。
当時のエドゥアール・マネは、空き時間があればルーブル美術館に足を運び、模写を行う生活をしていました。
その後、自分のアトリエを持つなど、画家として着実に歩んでいくことになります。
1859年にサロン・ド・パリの応募を行い、初入選を果たします。
当時の絵画とは一線を画すような技法であったこともあり、賛否両論の意見がありました。
なかにはエドゥアール・マネの作品を好む人もいました。
1860年にはバティニョール派と呼ばれるようになり、グループ展を立ち上げたことで印象派と呼ばれるように。
ただ、1880年頃より梅毒による体調不良があり療養しながら描く生活になります。
治療の結果も虚しく51歳の若さで亡くなりました。
エドゥアール・マネの作品の特徴は?
エドゥアール・マネという画家には、亡くなったあとも根強い批判を持つ人もいたそうです。
サロン・ド・パリに果敢に挑み続けた画家でもあり、その結果は、良いときもあれば悪いときもあり、諦めることなく挑戦し続けたことでも知られています。
「草上の昼食」は、娼婦を連想させるとして、品性に欠けると酷評されました。
この評価に落ち込んでいるかと思いきや、同年に裸婦画の「オランビア」も発表しています。
いわゆるヴィーナスの典型的なポーズを描いたありきたりな作品ではありますが、あまりに凹凸のない平坦な描き方について、批判が集まったとも言われています。
この表現方法は日本の浮世絵にインスピレーションを受けたものになります。
さすがに批判が続いたことで、一時はイタリアで生活していた時期もありますが、その後も果敢に挑戦していきました。
エドゥアール・マネは当初、神話や宗教、歴史などを題材としたものが多かったのですが、次第にモデルが変わっていきます。
先程紹介した「草上の昼食」は、近代美術の発展にも貢献したと言われています。
作品がとても不思議なのが、男性は着衣を着たままの姿で、女性はヌードで描かれている点です。
完全にオリジナルというわけではなく、パリスの審判(ラファエル)を下書きにした版画作品をもとにしたといいます。
今まではヌードの女性=神話の女性など、空想世界のものが多かったものの、裸婦の周辺に果物が描かれるなど、現実の世界であることを現しています。
エドゥアール・マネの作品は、もともとの絵の常識を覆すものが多く、当時セックスの象徴として知られていた花束などの絵も好んで描いていました。
当時の美術の常識とは明らかに反したものであるため、美術界にとって受け入れられにくい部分もあったようです。
また、エドゥアール・マネは自身が上流階級の出身だったこともあり、描く世界も上流階級を好む傾向があったようです。
画家のなかにはあえて貧しい生活を描くこともあれば、エドゥアール・マネのように上流階級の生活を描く画家もいるなど、さまざまです。
エドゥアール・マネの作品にはどんなものがあるの?
画家エドゥアール・マネは油絵を中心にたくさんの作品を残しています。
なかでも有名な作品について、紹介していきたいと思います。
テュイルリー公園の音楽祭
1862年に描いたエドゥアール・マネの初期の代表作です。
フランスのパリで開催されたテュイルリー公園の音楽祭をモチーフに描きました。
エドゥアール・マネらしい作品としても知られており、写実主義的な思考が現れている作品でもあります。
当時のブルジョワ層の人達の生活が描かれているものになり、すべて存在した人が描かれています。
そのため群衆肖像画としても知られており、当時の現代的な生活を描いたことでも称賛されています。
エドゥアール・マネにとっても、画家として絵のテイストを変える転換期になった作品です。
親しい人たちも描いているなど、とても感慨深い作品としても知られています。
オランビア
1863年に描いた作品になり、スキャンダラスの原因になった作品でもあります。
エドゥアール・マネは当時、ティッツァーノの傑作として知られた「ウルビーノのヴィーナス」を見て、この作品を描いたと言われています。
オランビアとは、当時の娼婦に多く用いられた通称でもあります。
サロンの入選基準がゆるくなっていた時期ではありますが、あからさまに娼婦を描いた作品としてもスキャンダルの原因となっていまいます。
あまりに現実的に描かれていること、エロスというよりも背徳感の感じる作風に対して、思うところもあったようです。
笛吹く少年
1866年に制作された作品になり、こちらもとても有名なものです。
ボナパルト朝フランス帝国に所属している鼓笛隊をモチーフに描いたものになり、日本の版画からの影響も強く受けている作品だと言われています。
対象に対して真正面から描いたものであること、平面的な構成などは、日本画ならではの特徴ともいえます。
色彩の使い方なども、日本をイメージしたものになり、とてもシンプルな構図でありながら奥深い作品として仕上がっています。
和との調律がとれた、美しい作品です。
すみれの花束(ブーケ)をつけたベルト・モリゾの肖像
1872年に描かれた作品になり、マネ自身の友人でもあり師弟関係として知られたベルト・モリゾを単身で描いたものです。
彼女は女流画家としても名をはせた人になります。
平易面で描かれていること、落ち着いたシックな色合いなどを用いたものになり、大きな瞳が印象的ですね。
1872年にベルト・モリゾを描いた作品は4種類ありますが、そのなかの一つとしても知られています。
全体的に色が統一されていることで、より単身の絵が際立って見えるのも特徴と言えるのではないでしょうか。
まとめ
エドゥアール・マネは画家として優れた才能を持ち合わせていたものの、作風や時代背景によって、なかなか評価されず苦しんだ時代もあるようです。
当時の美術界にとっては独創的な世界観であり、受け入れがたいと思っていた人も。
とはいえ、モダニズムな生活感のある絵を描いたことなど、彼にしか描けない作品の数々を見ていると、素晴らしいのが伝わってくるのではないでしょうか。