ウィリアム・ターナーは、特にロマン主義であり、天才として名前を知られたイギリス出身の画家です。
肖像画などで一度は目にしたことがあるかもしれません。
ウィリアム・ターナーはイギリスの近代美術の先駆者としても知られ、他の画家とは違ったテーマで数多くの作品を残しました。
当時、空想の世界観が多い中で、現実主義でもありそのままの姿を残すことにこだわりました。
この記事では、日本では意外と知られていないウィリアム・ターナーについて紹介いたします
ウィリアム・ターナーとは?
ウィリアム・ターナーは、1775年4月にロンドンにあるメイデンレーン21にて、理髪師として働いていた父親と、母親の間に生まれました。
下流階級の家柄だったこともあり、コックニーなまりと呼ばれる労働者階級の言葉遣いを気にして、人前に出るのを避けているような一面もありました。
姉妹のメアリーアンがいましたが、5歳の誕生日の直前に亡くなってしまいます。
この頃から母親が精神疾患を患っていたこともあり、病院に入院することになります。
そのため、叔父と生活していた時期があり学校に通っていました。
1789年には、ロイヤルアカデミースクールに入学し、たくさんの人達と出会います。
序盤は、ウィリアム・ターナーが独学で美術を習得していたものの、水彩画で高い評価を受けるまでになります。
また、オールドマスターの研究にも余念がなく油彩作品作りにも積極的に取り組み、1802年には史上最年少でロイヤル・アカデミーの正会員に。
あまりの人気ぶりに自分のギャラリーを持つまでになり版画集の出版まで手掛けました。
1815年にナポレオン戦争が集結すると、初めてのイタリア旅行に旅立ちます。
特にヴェネツィアに強い興味を持ち、その後も何度も訪れるまでに。
ナポレオン戦争の痕跡を描くことにも注目し、ヨーロッパ各地の姿を絵に残しました。
ウィリアム・ターナーの描く絵は、見る人によってさまざまな意見がありましたが結果として印象派に影響を与えるまでに有名な画家として認められる存在になりました。
ウィリアム・ターナーは光の鮮やかな色使いからも「光の画家」などの異名を持つことも。
ただウィリアム・ターナー自身は、少し気難しい一面もあり父親を亡くしてからは特にその傾向が強くなったそうです。
健康状態の悪化によりロンドンで亡くなるまで、生涯に2000点以上の絵画や、ドローイング作品などのスケッチも残しています。
ウィリアム・ターナーの絵の魅力とは
ウィリアム・ターナーは子供のときから「絵の天才」と呼ばれていました。
災害の悲惨さを伝えた作品が多い
彼の芸術を親交していた人物の一人に「ウォルター・フォウクス」がいます。
ウィリアム・ターナー自身が何度もヴェネツィアを訪れたときに、オトリー周辺の景色を水彩画として描いて欲しいと依頼を受けました。
ウィリアム・ターナー自身もこの地を気に入っていたことから、生涯のうちに何度も訪れ風景画を残します。
オトリーにあるケビン山で嵐が発生したときに、大きなインスピレーションを受け作品の制作も手掛けました。
自然には抗えない人間の想いや、破壊的な力など見事に描いた作品がたくさん残されています。
彼が思い描く想像力のなかには、火災事件や難破船、暴風雨、雨、霧などの自然現象から得たものも大きく、海に強く興味を持っていたこともわかっています。
海洋事故などを描いた作品も多く、どれも国際問題とも言えるようなメッセージ性の高い作品を描いています。
どれも迫力のある絵なので、印象深いのではないでしょうか。
大気のような独特の作風が多い
ウィリアム・ターナーは幼少期より優秀な人物でしたが、長年描き続けてきた絵の特徴として大気のようなぼやのようなものを全体に描くスタイルをとっていました。
その作風に対してさまざまな意見がありました。
成熟期の作品は、色鮮やかなぼやを描いたものも多く、淡い消えゆくような光の描き方がとても美しいのが特徴です。
彼は自然の雰囲気のようなものを瞬時に察知できる能力に優れていたこともあります。
熟年期に入ると、光をより鮮明なものにして、抽象画に近いタッチで描くようになります。
イギリス近代美術の先駆者としても高く評価されるようになったこと、かの有名な画家クロード・モネにも影響を与えるなど、いかにウィリアム・ターナーが注目された人物だったかがわかるのではないでしょうか。
一見すると、何を描いているのかわからないものもありますが、どれも色使いがとても美しくウィリアム・ターナーがいかにすごい人物だったのかがわかると思います。
ウィリアム・ターナーの作品
ウィリアム・ターナーたくさんの絵画を残したことで知られる画家です。
そのため、残されている作品もたくさんあり、それぞれに魅力があります。
建築設計の仕事をしていたこともあり、全体のバランスなども絶妙です。
ウィリアム・ターナーの作品にはどんなものが、あるのか紹介していきたいと思います。
難破船
1805年に描かれた難破船は、ウィリアム・ターナーの初期の頃の作品です。
フェンデフェルデの海景図の制作を受け描いたうちの一枚です。
ウィリアム・ターナーの作品のなかでも最も有名なものです。
実際にウィリアム・ターナー自身も「この版画が私を画家にしてくれた」と話すように、画家人生の引き金となった作品です。
難破船をただ描いただけではなく、自然の驚異のなかで必死に抗う人間の姿も一緒に描いています。
生存者はもちろん、荒れ狂う波のなかで必死に助かろうとする姿を描いています。
海は人間を生み出した場所でもあり、また自然の驚異の姿そのままでもあります。
そんな海の奥深さを描いたのが、この難破船です。
今にも声が聞こえて来そうなぐらい、リアルに描かれていますね。
宵の明星
1830年に描かれた今作は、とてもシンプルながら、ロマンティックさも感じる作品です。
イタリア旅行のあとに制作されたものになり、ロンドンのテムズ川の河口付近にある風景を描いたと言われています。
実際には未完成な作品としても考えられていますが、静寂さを感じる風景はどこか寂しくもあり、単身で描かれた幼い漁師にはどんな意味があるのでしょうか。
簡素な構成ではあるものの、だからこその奥深さもあり、引き算的な美しさを感じずにはいられません。
夕方ならではの様子が描かれている作品です。
解体のため錨泊地に向かう戦艦テメレール号
1838年に描かれたこの作品は、9月6日に錨泊地に向かって出向したテレメール号を描いた印象的な作品です。
水平線に燃えるような迫力のある太陽が描かれ、とても美しいと思いませんか。
当時のテレメール号は、最新鋭の設備を搭載していたこともあり重要な任務を任されることも多かったのだとか。
そんなテレメール号が古びていく姿に、どこか心情を重ね描いたのではと言われています。
ウィリアム・ターナーにとっても、この水平線に向かっていく船の姿が、印象強く見えたのではないでしょうか。
まとめ
ウィリアム・ターナーは、どれも彼らしさを感じる作風になり光の入り方や色彩などが素晴らしい画家でもあります。
水彩画の印象が強いのですが、版画の作品も数多く残し、Liber Studioruは最も完成度が高いメッセージ性のある作品としても知られています。
ロマン主義のなかでも、ウィリアム・ターナーは最も偉大な画家であり、幻想的な世界観のとりこになる人も多いのではないでしょうか。
今でも世界各地で愛され続けています。