「なぜこれがアートなの?」「本当にアートなの?」という作品にたまに出会うと思います。
鑑賞していると独自の背景や世界観、時代の流れを実感できますし、アートへの疑問は普遍的に存在しつつ、年数を経てから評価されるものも多々あるようです。
ですが、新しい発見や刺激を与えるもの、決まりきった方法論に拘らなければ実在するアートの種類は、なんと多いことでしょう。
芸術は観る側への感動や与える影響からも、アートとして君臨しています。
あなたは、これからご紹介するアート作品をどのように眺めますか?
アートは神話そのもの
今から2000年前、キプロスの王グマリオンは、国の女たちのあまりの性悪さに腹を立て、完璧な女性を創ろうとしました。
それは、生身の人間ではなく、彫刻でできていたのですが、彼はくる日もくる日もその彼女に語りかけ、贈り物をし、ベッドを共にしていました。
作品の素晴らしさと、その思いに心打たれたのが、その彫刻の「愛と美の女神ヴィーナス」です。
彼女は、その彫刻に命を吹き込むという褒美を与えた、という伝説があります。
奇妙に思えるかもしれませんが、芸術の創造と情熱的な愛は、元を正せば実は同じものなのだという考えに私たちは賛同しているのです。
『なま玉子 B』上田薫・1976年
ここで、上田薫の作品を見てみましょう。
「これ以上本物そっくりに描くことは、できないのではないか?」と言えるほどの実写は、細部に至るまで、それこそ1秒間の様子を緊張感あるドラマにして演じています。
解き放たれた瞬間の興奮を見事に表現していますね。
開かれていく作品
「一体作者は何を言いたいのか?」という質問に対して、作者でさえ解答を提供しないものがあったりしますが、この作品もそのひとつと言えるでしょう。
『泉』マルセル・デュシャン・1917年
この作品は、それこそ「なぜこれがアートなの!?」と思わず声に出しそうになることでしょう。
これは、芸術作品が醸し出す上品で高尚なイメージとは程遠く、あからさまな疑問が湧き出てきます。
しかしながら、よく考えると、それは個性もムダもいっさいなく、無機質で機能的です。
そして、このような場所で用を足す男たちの行為そのものは、私たちが美術館で作品を鑑賞することと、とてもよく似ているのです。
つまり、公共の場で行う個人的な体験。
そして、この便器は逆さまであることから、使用すると溢れてきてしまう状態なので、だから『泉』。
私たちは、このような作品にも多くの芸術作品を鑑賞していく中において、アートとして疑問や質問を抱きながらも向き合うのです。
きまじめで抽象的
例えばゴミ箱の中身が絶賛される絵画になり得るように、なんだかわからないけれどインパクトを与える、そういった作品は確かにありますね。
ここでは、私たちの中にある秩序や理性に訴えかける作品を紹介しましょう。
『無題』ドナルド・ジャッド・1969年
この壁付けの作品は、どこか装飾的イメージがあります。
ジャッドは、この作品で体積をよりはっきりわからせるために、ステンレスとブレキシグラスでできた同じ形の平たい箱を、なんと10個も用意!
この効果は重量感を最小限に抑えることに繋がりますね。
箱と同じ大きさの空間をあけて順に壁に取り付けているところがポイントです。
パッと見ると、繋がった縦長の物体に見えますが、床の少し上から始まり、天井の少し下まで続いています。
また、これは宙に浮いているようにも見え、ブレキシグラスの透明感は、見えるはずのない「空気」の存在を見せてくれています。
メディアとアート
私たちの中にある無意識。
そこに刻み込まれる大衆文化の影響力は、皮肉の効いた絵画でありながら当惑しつつ庶民的なイメージで表現されるようになります。
マリリンモンローも広告塔として大衆のアピールに用いられました。
『聖母子』ジェリー・カーンズ・1986年
彼は、マリリンモンローに、ニック・ウトがベトナム戦争で撮った子ども、あの忘れがたい写真を重ねることを行いました。
その子どもは爆弾で火傷を負い泣き叫びながら逃げた一人として、『ナパーム爆弾撃から逃げる子供たち、1972年6月8日』の映像でも知られています。
既成の図案の流用と、作品の意図するところを明確にするために用いられた手法です。
マスメディアの創り出したシンボルであるマリリンモンローを聖母として、ベトナムの少女をその子どもとしていることで萬意画を創り上げているのには意味があり、訴えたい有効な気持ちが見て取れます。
新しくはないモダンさ
伝統は破壊や再構築をするより、「遊び場」のようなものという考え方も現れました。
『新浪シリーズ/セラと夢の蛸』寺岡政美1992年
シュノーケルを手にした女性を巨大な海の生物「蛸」が情熱的に誘惑しています。
この作品は、日本の伝統的な春画であり、葛飾北斎の『浪千鳥』に極似していますね。
寺岡の描いた女性はブロンドであり、彼女が横たわる浜辺にはよく見るとあちこちにコンドームの包みが散乱しています。
これが意味するものは、イボイボの誘惑者の強烈な性的パワーであり、エイズ時代に生きる人々の不安感でしょう。
なぜ、女性はブロンドなのでしょうか?
そこには、江戸時代の艶本をポルノ雑誌の1ページのように仕立てている様子が見て取れます。
体験や想像による感性の増幅
私たちの身体はきっと美術史において最も馴染み深いモチーフに違いありません。
真っ暗な部屋で10分、椅子に座ってみるとわかります。
下記の作品は、それを見事に体験させてくれます。
『ソフト・セル』ジェームズ・タレル・1992年
たった一人で小さく暗い部屋の中に入ることは、音もなく無があるだけの体験と疎外感のみ。
しかし、しばらくすると自分の鼓動や息づかいがあるのを知るのです。
自らの存在を目と脳で再確認するのです。
私たち一人ひとりは、それぞれがこのような「なぜ、これはアートなの?」と思える作品を共有するからこそ、体験や想像によってさらに感性を磨いていくことができるのでしょうね。