フランソワ・ミレーのイメージは「よき父でよく働く農民で批判にも屈せず真の姿を描き続けた人」ではないでしょうか。
いわゆる「いいイメージ」が強い画家です。
そのため、日本では岩波書店のマークにミレーの「種まく人」が使われ、海外では「晩鐘」も企業の宣伝に使われています。
この記事では、フランソワ・ミレーの生涯と、その作品の背景についてもご紹介いたします。
フランソワ・ミレーの生涯
フランソワ・ミレーは1814年にイギリスの農家に生まれました。
19歳から絵の修行を始め作品をサロンに出品します。
最初の妻はミレーが30歳のときにこの世を去ります。
その後ミレーは、家政婦だったカトリーヌとフランスで同棲をしながら絵を描き続けます。
35歳のときにミレーは家族を連れてパリからバルビゾンに移住しています。
ミレーは家政婦だったカトリーヌとの間に9人もの子どもがいますが、正式に結婚したのはミレーが39歳になってからです。
家柄と格式を重んじるミレーの一族が家政婦との結婚を快く思っていなかったのです。
バルビゾンに移住してからのミレーは農民の姿をたくさん描きましたが、保守的な人たちからは「農村の貧困を前面にだしている」と酷評されてしまいます。
それでもミレーは、金銭的な理由と環境の良さからバルビゾンに住み続けて農民や農村を描き続けるのです。
そしてミレーが47歳のときに描いた「羊の毛を刈る女性」がサロンで高く評価されます。
その後「晩鐘」「落穂拾い」などの代表作を発表するのです。
ミレーの描く作品は賛否両論でしたがゴッホやダリなどに大きな影響を与えました。
フランソワ・ミレーは、60歳で家族に看取られてこの世を去ります。
知っておきたいフランソワ・ミレーの代表作
ルソーとの友情の証「接ぎ木をする農夫」
「接ぎ木をする農夫」は1855年、フランソワ・ミレーが41歳のときに描いた作品です。
当時のミレーは4人の子どもをもつ父でした。
身近なところに小さな子どもがいたため、抱かれている子どもの表情が見事に表現されています。
この作品は万博に出品した作品のうちの1点です。
唯一入選した作品ですが、なかなか買い手がつきませんでした。
結局、ルソーがアメリカ人になりすまして購入します。
ルソーはミレーの親友でした。
親友であるミレーのプライドを傷つけないように購入することで金銭的にも精神的にもミレーを支援したのです。
ルソーは、フランソワ・ミレーが53歳のときにこの世を去りました。
農民の姿を描いた「晩鐘」「落穂拾い」「羊飼いの少女」
「落穂拾い」は、農家の生まれだったミレーだからこそ描けた作品です。
当時は貧困に悩む農民が多く、落ち穂を拾う女性の姿を描いた作品は批判されました。
しかし農家の厳しさと農村の美しさを知っているミレーは美化したり真実を捻じ曲げたりすることなく真の姿を描いたのです。
「落ち穂」は、収穫が終わった畑に残された「いらない穂」です。
不要な穂を拾い集めて収入にしている貧しいけれどたくましく生きる農民の姿を描いています。
現在「落穂拾い」は、オルセー美術館に展示されています。
「羊飼いの少女」のテーマは「貧しい農民」ではありません。
そのためサロンに出品しても批判を受けることはなく好評でした。
「あまりにも批判を受けるようなテーマの作品ばかりを出品することはよくない」とのアドバイスを受けて描かれた作品ともいわれています。
「晩鐘」は、フランソワ・ミレーを育ててくれた祖母との思い出から生まれた作品ですが背景にはバルビゾンの風景が描かれています。
日本に影響を与えた「星の夜」
「星の夜」は、ミレーのアトリエに最期まで置かれていた作品です。
多くの画家は日差しが降り注ぐ朝や昼に絵を描きます。
しかしミレーは夕暮れ時や夜の美しさをたくさん描いています。
「星の夜」はゴッホに影響を与えた作品だといわれています。
さらにゴッホから日本の宮沢賢治に伝わり「銀河鉄道の夜」の元となったのです。
ミレーは、日本の黒田清輝にも影響を与えています。
黒田は日本人で初めてバルビゾンに足を踏み入れた人であり、ミレーに興味を持っていました。
ミレーの作品を研究し自分の制作にいかしていたのです。
フランソワ・ミレーが多くの人に愛される理由
ミレーの評判の良さは、サンスィが書いた「ミレーの生涯」が発端と考えられています。
サンスィは美術館行政を担当していた役人です。
ミレーとは友人であり支援者でもありました。
サンスィもミレーの作品を購入しています。
実際のミレーは、作品から見る限り「よき父」であったことに間違いはないようですが、よく働く農民であったかは疑問です。
少なくともバルビゾンで暮らしているときには畑を耕していた記録はありません。
また「批判に一切屈しなかった」とも言い難いのです。
ミレーはサンスィのアドバイスに従って批判を受けない「羊飼いの少女」を描いています。
サンスィが書いたミレーの生涯は多少脚色されているとも言われていますが、サンスィの執筆によってミレーの名が広まったことも確かです。
おわりに
フランソワ・ミレーは友人に恵まれた画家でした。
ルソーはミレーの作品をアメリカ人に扮して購入しミレーを励ましました。
ルソーはミレーの腕に中で息を引き取っています。
ミレーは「芸術においてもっとも私を感動させることは人間的な側面」と言っています。
多くの画家は孤独と戦う人生を送っています。
しかし友人や家族に囲まれて、人間的な側面をたくさん見ることができたミレーは幸せな人生だったのではないでしょうか。