この記事では、東山魁夷の生涯と代表作についてご紹介します。
東山魁夷が15歳のときに描いた自画像があります。
15歳とは思えないデッサン力です。
東山魁夷は生まれながらにしてずば抜けた画家の能力を持っていた人だったのかもしれません。
さらに繊細な感受性が作品に深みを与えています。
絵を描く能力と教養、そして心を鏡にして描く研ぎ澄まされた心が数々の心に響く作品を生み出したのではないでしょうか。
東山魁夷とは?
東山魁夷は、1908年に横浜に生まれました。
東山魁夷を一言でいいあらわすとすれば「幼いころから優秀で繊細な心を持った人」です。
魁夷は第二神戸中学校(現:兵庫県立兵庫高等学校)に進学しますが、あまりに繊細な心だったため一時的に登校拒否になります。
しかし、繊細な魁夷の心を理解した第二神戸中学校のひとりの先生が魁夷を展覧会に連れて歩くのです。
そして東山魁夷の「画家になりたい」という強い意志を知った担任教師は、魁夷の両親を説得します。
その結果、魁夷は東京美術学校(現:東京芸術大学)に進学することができるのです。
第二神戸中学校の卒業生には、小説家の横溝正史や画家の小磯良平がいます。
第二神戸中学校の存在があったからこそ東山魁夷という偉大な芸術家が誕生したのです。
東京美術学校に進学してからも魁夷は優秀な成績をおさめます。
授業料が免除される特待生には4年間連続で選出されています。
在学中に制作で悩むこともありましたが、当時の教授だった結城素明氏に「心を鏡のようにして自然を見ておいで」と指導され、作品制作だけでなく人生についても多くを学びます。
東京美術学校を卒業したあと、魁夷はドイツに留学します。
中学生時代とは正反対に社交的で活発な学生生活を送ります。
帰国後、父と母と弟を立て続けになくします。
画家として名を上げることもできず苦しい時期でしたが、魁夷は絵を描き続けます。
そして39歳で描いた「残照」をきっかけにして風景画に目覚めるのです。
風景画を描き始めた魁夷は、代表作を数多く輩出します。
1999年魁夷は90歳でこの世を去ります。
知っておきたい3つの代表作
<道>1950年
東山魁夷は1947年に「残照」を描いてから、輪郭線がハッキリとした作品ではなく、色の濃淡や境目で形を表現しています。
印象派のモネを連想するような自然の光の移り変わりを感じるのではないでしょうか。
「道」は空と草地と道の3つだけで構成された作品です。
青森県八戸市の種差海岸を描いています。
「道」を描く前に同じ場所を「静朝」というタイトルで描いています。
「道」との違いは、「静朝」には道の先に白い灯台のような建物が立っています。
草地と空の色も青と緑でしっかりと分けられています。
一方の「道」には灯台がありません。
空と草地の色も似たような緑色です。
空と草地を似た色にすることで道がひときわ目立つように感じます。
<緑響く>1972年
「緑響く」は美術の教科書やテレビコマーシャルなどで頻繁に目にする白い馬が印象に残る作品です。
東山魁夷の作品には「白い馬」が登場する作品がいくつかあります。
季節も場所も異なる作品ですが「白い馬」という共通点を与えることで連作になっています。
「白い馬」は祈りの象徴といわれています。
「緑響く」は魁夷がモーツァルトのピアノ協奏曲イ長調第二楽章を聞いていたときに感じたことをもとにして描かれています。
おだやかなメロディを聞きながら鑑賞してみると魁夷の世界観をより感じられるでしょう。
<朝明けの潮>1968年
「朝明けの潮」は、皇居新宮殿長和殿に描かれた壁画です。
波は岩絵の具の青緑で、岩の黒色は緑青を焼いて作りだした色です。
さらに金とプラチナ箔でしぶきを表現した繊細でありながらも豪華な作品です。
魁夷は他の作品でも金やプラチナを使用しています。
1977年の「暁雲」は一見モノクロの水墨画にみえます。
しかし実は白く見える空には金泥が使われ、白く見える靄の部分にはプラチナが使われているのです。
印刷された絵では感じることは難しいのですが、本物をみれば見る角度によって金やプラチナが光を反射して独特の奥行き感を生み出しています。
金やプラチナは時間がたっても変色しないため壁画に適した画材だったのでしょう。
おわりに
東山魁夷は文学や音楽にも造詣が深い人でした。
魁夷は京都の絵もたくさん描いていますが、自分の目で見た光景だけではなく、源氏物語などの古典を参考にして制作していたといわれています。
「朝明けの潮」も俵屋宗達の「松島図」を参考にしています。
小説家の川端康成も東山魁夷のファンでした。
魁夷が制作した「京洛四季」の会場で川端康成は「京都には建物が増えてしまい、山が見えなくなってしまったが、東山魁夷の絵には昔の都の姿がとどめられている」という意味の話をしています。
魁夷に京都を描くようにすすめたのも川端康成だったといわれています。