バウハウスとは、1919年にドイツに誕生した造形学校です。
ザクセン大公立美術工芸学校と美術アカデミーをあわせて「ヴァイマール国立バウハウス」となりました。
初代学長はヴァルター・グロピウスという建築家です。
この記事では、バウハウスについてわかりやすく解説いたします。
バウハウスには入学試験が無い?
バウハウスに入学試験はありません。
過去に制作した作品で合否判定をしてはいたけれど、定員を上回る学生を入学させていました。
年齢制限もなく、最年少は14歳だったといわれています。
授業は月曜から土曜までで、朝8時から夜7時ごろまでです。
学長でもあるヴァルター・グロピウスは、それまでの芸術をバラバラで教育する方法ではなく、すべてを統合する芸術教育を目指しました。
さらに、芸術家が芸術家だけで孤立するのではなく、社会と積極的に関わる芸術家の育成を目指したのです。
二人目の学長はハンネス・マイヤーという建築家です。
マイヤーは、バウハウスのそれまでの教育方針を変更しようとしました。
美術よりも科学を優先し、とくに建築に力を入れました。
マイヤーは建築の教師を増員し、カリキュラムも作成しました。
しかし、マイヤーのやり方は「新しい造形教育の可能性を追求する」というバウハウスらしさを奪います。
マイヤーは政治的思想にも問題があると判断され、学長を解雇されます。
三人目の学長はルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエという建築家です。
マイヤーと同じ政治思想を持つ人を辞めさせて新たなスタートを切ります。
建築だけでなく、織物や広告など新しいクラスを設置して立て直しを図りました。
しかしナチスの影響を受けて、バウハウスは14年という短い期間で閉校となります。
バウハウスの教授「マイスター」たち
バウハウスの教授たち「マイスター」には有名な芸術家がたくさんいました。
画家のパウル・クレーもその中のひとりです。
クレーは、ステンドグラスや織物の授業を担当していましたが、とくに基礎教育の授業に定評がありました。
クレーは、学生たちに指導をしたあとに必ず「これはひとつの可能性にすぎない」という言葉で授業を締めくくりました。
答えはひとつではなく、学生自身が考えることが大切であると考えていたのです。
カンディンスキーは、最後までバウハウスを支えた一人です。
カンディンスキーは、大学で法律を学んでいました。
そのため、授業も感覚ではなく理論的に行われていました。
なかでも「分析的デッサン」はユニークな授業でした。
それは、無秩序に積み上げた物をよく観察し、シンプルな構成でデッサンにするというものです。
カンディンスキーの作品は、線や円のような幾何学的な図形で構成されています。
まさにカンディンスキーが作品を制作するときに頭の中で行われている過程を実践させる授業です。
優秀な学生は「ユングマイスター」として教師になっていました。
バウハウスの精神の中で教育された人が教師になることで、バウハウス精神を継承させようとしたのです。
バウハウスのスゴイところ
バウハウスのスゴイところは「工業との提携」です。
それまで芸術は芸術の世界だけのものであり、規格がある工業とは提携できないと考えられていました。
規格に縛られることなく、芸術家の感性で自由に制作することこそが芸術だと思われていたのです。
しかし、バウハウスは工業と芸術を提携させました。
テーブルスタンドや家具や壁紙は実際に企業と提携し製品となっています。
バウハウスは新しい芸術教育をするために「実験精神」もスゴイ学校でした。
バウハウスは、入学すると経験の有無を問わず、美術の基礎教育を受けます。
その後、木・石・金属・土・ガラスの中から好きな素材を選び工房に入ります。
工房で3年学んだら最終目標である建築に進みます。
バウハウスのスゴイところは、この工房で行われていた実験とも呼べる実習です。
それまでは「装飾がついたモノが美しい」という常識がありました。
しかしバウハウスの工房では、装飾ではなく素材と形だけで美しさを表現します。
バウハウスの工房では、今までの伝統を継承する教育ではなく、例え失敗したとしても次のステップとなる新しい芸術を追及していました。
1933年にバウハウスは閉校します。
しかし、バウハウスに在籍していた教授や学生は、その後も教育に携わり続けました。
ほとんどの人はアメリカに渡りバウハウスの教育理念を再び広めようとしました。
元バウハス学長だったミースは、自分が在籍していたイリノイ工科大学にバウハウスで教鞭をとっていた仲間を呼び寄せています。
その他にもハーバード大学、イェール大学でもバウハウスに在籍していた教師が再び教壇に立っています。
おわりに
日本にもバウハウスの精神は受け継がれています。
日本では、バウハウスの教育を取り入れた新建築工芸学院が誕生しています。
亀倉雄作や桑沢デザイン研究所を設立した桑沢洋子らが卒業しています。
日本から初めてバウハウスに留学した水谷武彦や山脇巌や山脇道子は東京美術学校(現:東京芸術大学)、帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)などの学校に携わっています。
バウハウスは14年という短い期間で閉校となりましたが、バウハウスの教育理念は現在も受け継がれています。