文人画とは、プロの画家ではない文人が描いた絵のことをいいます。
松尾芭蕉や小林一茶は俳人として有名です。
しかし、芭蕉や一茶は俳句だけではなく絵も描いていました。
しかも画家顔負けの魅力ある作品です。
絵のジャンルとしての知名度は高くありませんが、文人画にはプロにはない見どころがあります。
文人画とは
文人画とは、文人が描いた絵です。文人とは、知識人で文章を書くことが上手な人です。
もともとは中国でできた言葉で、出世や権力の世界から抜け出した自由な世界観をもつ「隠逸」な考えを持った知識人を意味しています。
隠逸は、高い身分の人が肩書や立場を捨てて野にこもり、自分の理想とする生き方をすることです。
隠逸には「権力争いから逃げ出した」というイメージもあります。
たしかに文人たちは、理想と現実のギャップに苦しみ、思うようにいかない現実から目を背けるために隠逸して文人画を描いたのかもしれません。
しかし、隠逸によって心が解き放たれ、自由な魅力ある文人画が登場したのではないでしょうか。
文人画は、油絵や彫刻のように作品の種類によって分類されたものではなく、描いた人の特徴によって分類されている珍しいジャンルです。
文人画は依頼されて描いたり、お金のために描いたりされたものではなく、文人が描きたいと思ったときに描きたいものを描いています。
プロのように上手な絵とは限らず、「自娯(自分の娯楽)」を目的とした絵です。
依頼人の好みにあわせようと考えたり、売れやすい内容にしなければならないと縛られたりすることなく、「絵を描きたいから描く」という純粋な気持ちで描かれた作品が文人画です。
画家であり俳人だった「与謝蕪村」
与謝蕪村は、江戸時代に活躍した俳人です。
代表作は「菜の花や月は東に日は西に」や「春の海 終日のたりのたり哉」などがあります。
与謝蕪村は絵もうまい人でした。
中でも「夜色楼台図」は幅広い墨の濃淡を使って夜に降る雪を表現しています。
この作品は、水墨画のため墨で描かれていますが、墨で描く前に胡粉が塗られています。
胡粉は、牡蠣の貝殻の粉で白い顔料として使われています。
胡粉を下地にすることで上から塗った墨色がムラになり夜空の深みを出しています。
さらに雪は胡粉の白色で描いています。
墨の黒色の上から胡粉の白色で雪を描き、より墨の黒色を引き立たせています。
「若竹図」はシンプルな線と筆さばきで竹の質感を描いています。
また「蘇鉄図屏風」は墨の濃淡と線の太さで奥行きを表現し、画面に漂う空気感は長谷川等伯の「松林図屏風」を思い出させます。
与謝蕪村は、植物や風景だけでなく動物や鳥や人間も描いています。
どれも優れたデッサン力です。
小林一茶も俳句の横に絵を添えていました。
子どもや小さな生き物を俳句にすることが多かった一茶の絵は個性があります。
与謝蕪村のように画家顔負けの絵とは違い、いわゆる「ヘタウマ」の魅力です。
一茶の俳句があるからこそ絵も引き立って感じるウィンウィンの魅力が文人画にはあります。
蛮社の獄で有名な「渡辺崋山」は絵がうまい
渡辺崋山は江戸後期に活躍した人です。武士であり蘭学者であり画家であった人です。
幼い頃から絵を学び、絵で生計をたてようと考えていました。
しかし、西洋画や蘭学を学ぶうちに江戸幕府に対して様々な感情が沸き起こります。
そして有名な蛮社の獄につながるのです。
蛮社の獄とは、1839年におきた江戸幕府による蘭学者を弾圧した事件です。
当時47歳だった渡辺崋山は、幕府がモリソン号事件で行った外国船打ち払いを批判した「慎機論」がみつかり弾圧を受けます。
さらに49歳のとき、絵を売っていたことが幕府に知られてしまうのです。
これ以上は藩に迷惑がかけられないと考えた渡辺崋山は自刃でこの世を去ります。
蛮社の獄があまりにも有名なため、渡辺崋山といえば蛮社の獄というイメージが強くなってしまいました。
しかし渡辺崋山は画家で食べていこうと考えていたほど絵がうまい人だったのです。
「一掃百態」は、江戸時代の様子を描いたものです。
寺子屋の様子や大名行列の様子など、「一掃百態度」は葛飾北斎の「北斎絵本」を思わせる見事な描写です。
文人画は、文人が肩書や立場を捨てて自分のために描いた絵です。
渡辺崋山の作品の中には「千山万水図」や「黄梁一炊図」のように幕府や人生に対する思いが込められているものもあります。
渡辺崋山が描いた作品は、文人画でありメッセージであったのかもしれません。
おわりに
有名な画家のほとんどは、絵を購入する人からの依頼が絵を描くスタートです。
一方の文人画を描いた文人たちは、自分の楽しみのために絵を描いていました。
利益やニーズを考えず、思うがままに描いた絵だからこそ文人画にはプロの作品にはない「面白さ」があるのではないでしょうか。
文人画は「描きたいから描く」という原点を思い出させてくれるでしょう。