この記事では、数多くいる浮世絵師の中でも歌川広重に焦点を当て、浮世絵の時代背景を紐解きます。
浮世絵は、江戸時代を代表する絵画・版画のひとつとされています。
歌川広重(寛政9年〜安政5年1797〜1858)は、原風景を浮世絵として忠実に描いた唯一の人として知られています。
歌川広重が浮世絵師になるまで
私たちは、浮世絵の時代背景を思い描きながら、そこに生きた浮世絵師の姿を垣間見ることができます。
歌川広重は船大工の家に生まれ、のちに会席料理屋「百川」の養子に入ったものの、絵の道を志して、初代歌川広重に入門し重政と号します。
16歳ほど年齢の離れた兄弟子重宣は、初代の養女お辰に婿入りして二代目広重となるも、離婚。その後、重政が年齢も近かったこともあってお辰と結婚したことが、三代目歌川広重の継承を意味づけています。
デビュー作と、文明開化後の活躍
実質的なデビュー作となるものは、両国橋の橋桁を画面の中央に据えた「近像型構図」であり、当時の人々にとって、それは驚くものでした。
なぜなら、その描写、実在感があまりに見事だったからです。
実際、人々が目にすることのなかった現実の模倣や景色に魅了されてしまったのです。
「東都名所」や、 「両国之宵月」が、これに当たります。
デビューの翌年、日本は文明開化の時代背景を迎え、開港の様子や洋装、はたまた人力車や蒸気機関車など、題材には事欠かなかっただけではなく、当時は写真も普及していなかったことから、「浮世絵」師の活動はとても順風だったようです。
名所絵で忘れてはならないのが葛飾北斎(宝暦10年〜嘉永2年 1760〜1849)であり、浮世絵が売れる!と他の絵師たちに思わせたのも北斎です。
しかしながら、「冨嶽三十六景」が好調な売れ行きになった時の北斎は、その時すでに70歳でした。
名所絵の先陣を切ったのは北斎なのに、広重が名所絵の分野で第一人者とされるのはなぜなのでしょう。
広重がようやく頭角を現したのが35歳のころであり、「冨嶽三十六景」の発売からは数年経過しています。
1832年に京都を旅し、その時のスケッチをもとに、その2年後には出世作となる「東海道五拾三次」を発表しています。
この絵によって人気絵師の地位を確立しましたが、その段階で広重の描いた景色のほうが北斎を上回るほどに真実味があったこと、その絵のもっともらしさが人々により人気を得たのだとか。
以来、江戸の名所や、富士山、各地の風光明媚な場所を描き続けました。
広重の描いた浮世絵は、自然の美を賞賛し、雪月花の風雅を愛でたものであり、叙情性あるものとして単なる風景とは一線を画していました。
ですが、そんな歌川広重も1858年、当時流行していたコレラを患ってしまい、62歳に急死してしまいます。
歌川広重とロングセラーになった「浮世絵」
広重は、なぜ名所風景画の絵師として絶賛されるのでしょうか?
それは、透視図法的な空間の認識力にあります。奥行き感ある風景を構築、空気遠近法だけではなく、写真のように自然の風景を描いているところが見事なのですね。
雨や霧、雪などにおいてや、霞においてさえもリアリティのあるものとして名所風景をつくり出したのです。
浮世絵が登場するまではモノクロの名所図会でしか地理を把握できなかった人々は、そこへフルカラーの浮世絵が登場したのですから、当時、皆が実に一枚づつを楽しみにして様々な場所の風景を集めて眺めながら、想像を膨らませていたようです。
江戸末期には、錦絵の分野のなかでもはやりすたりの大きかったものがいくつも見られ、それは、役者絵や美人画、政治風刺、時事的なネタなどでした。
一方、ロングセラーとして取り扱われたものが「浮世絵」でした。
歌川広重にも、『雪中美女』という、そのまま「美人」を描いた浮世絵があります。
浮世絵の中でも特に人気で、これは、実在する美人たちを描いたもので、店の看板娘や巷の有名人、遊女も含まれ、中には歴史上で「美人」と語り継がれてきた女性、小野小町なども含まれました。
プロマイドのように出回っていたようです。
そういった背景もあり、浮世絵はゆっくりと売り上げを伸ばすジャンルであることもわかり、版元も広重に発注を続けることで結果的に、広重は名所風景画のトップ絵師として君臨し続けたのです。
歌川広重の最高傑作『東海道五拾三次』シリーズから数点
江戸時代の人々は現代とは違い、日本の大動脈を、実に長い時間をかけて旅していました。
そこには、道中で五十三の宿駅を渡り歩くという、正に「東海道五十三次」そのものが行われていて、浮世絵の題材として、とても好まれてきました。
歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次』(1833年頃)は、起点となる江戸・日本橋に始まって、終点の京都・三条大橋までを背景にした、実に合計55点からなるシリーズ作品の風景画です。
これ以前には、葛飾北斎がやはりシリーズものとして発表した『冨嶽三十六景』の浮世絵が大ヒットしていて、旅行ブームが沸き起こっていた背景があります。
1797年には絵入りの地誌『東海道名所図会』が刊行されていて、東海道の旅に人々の関心が高まっていた時期でもありました。
『東海道五拾三次 日本橋 朝之景』
1802年には、弥次さん喜多さんの珍道中が大人気となった十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の刊行が始まりました。
江戸の版元、保永堂がこの機運を見逃すはずがありません。
広重を起用して見事大成功。白黒ではなく、それがカラーだったこともあり、魅力的なものとして喜ばれました。
現代の私たちが見ても、江戸時代の旅気分が味わえて楽しいものがあります。
『東海道五拾三次 庄野 白雨』
名作とされています。道中の夕立を描いています。
坂道を籠に客を乗せた籠かきが上り、傘をさした男、鍬を担いだ男が下りて行きます。
蓆を背負った男まで登場しています。
まるで雨音が聞こえてきそうな描写は、まるで映画のワンシーンかのようです。
雨の構図も斜線を巧みに用いています。
『東海道五拾三次 蒲原 夜之雪』
この作品は動と静の対比が見事です。
客引きの留め女につかまり首を絞められている男が苦しそうだったり、騒々しい女たちの声が聞こえてきそうな面白おかしい場面があるかと思えば、こういった騒ぎに無関心な旅籠の女。
老婆は、湯を汲んで泊まり客の足を洗おうとしています。
実にユーモラスなのです。
『名所江戸百景 水道橋駿河台』
画面一杯に泳ぐ鯉のぼりが圧巻です。
また、神田川、水道橋から南西方向に富士がくっきりと見えています。
『近江八景之内 瀬田夕照』
琵琶湖岸の景勝地を題材とした作品。
朱色に染まる夕暮れの琵琶湖岸の情景をゆったりと描いていて、感慨深いものがあります。
間近に見ると、より作品の繊細さがわかるものであり、構図も魅力的です。
「六十余州名所図会」
浮世絵木版画の連作であり、日本全国68の国々の名所を描いた晩年の作品です。
このあたりから、縦長の画面に風景を描く「竪絵」が始まっています。
最晩年には、「名所江戸百景」があります。
おわりに
「東海道五十三次」を始めとする浮世絵で名を馳せた歌川広重は、葛飾北斎と同様に浮世絵だけではなく、他の様々なジャンルでも活躍した第一人者です。
細かい描写は実に写実的です。
今でいうアイドルのポスターや野球やサッカー選手のカードのごとく人気で、その影響は海外へも。
私たちが浮世絵を眺めるとき、その時代背景や彼らの描写、周囲の人々から伝わる息吹を感じながら相対することで、その絵そのものがまた違った意味で価値を感じてしまうのではないでしょうか。