美術にはさまざまなスタイルがありますが、フランスの伝統的な描き方を厳格に守っていたのが「新古典主義」といいます。
そんな新古典主義のなかでも最大の巨匠として、今でもその名を伝えているのが「ジャック=ルイ・ダヴィッド」です。
この記事では、芸術に詳しい人でも意外と知らないジャック=ルイ・ダヴィッドを紹介していきたいと思います。
ジャック=ルイ・ダヴィッドとは
ジャック=ルイ・ダヴィッドは、もともと1748年にパリの一般庶民の家に生まれました。
父親は鉄商人の仕事をしていましたが、社会的な地位を求め収税史の役職をもらえるようになります。
一見恵まれた家庭のように思うかもしれませんが、生まれてすぐに修道院に養育に出されてしまい、父親と生活はしていません。
もともと性格面にも問題があり30歳のときに若くして決闘で亡くなりました。
ジャック=ルイ・ダヴィッドは建築家のフランソワ・ピュロンに引き取られることになります。
そこでフランソワは、ジャック=ルイ・ダヴィッドを建築家にするための、学校に入学させるのです。
17歳になると王立の絵画彫刻アカデミーに入塾し、ジョセフ=マリー・ヴィアンの生徒として学ぶようになります。
ジャック=ルイ・ダヴィッドが歴史画家としてその名を広めるまでにはさまざまな条件をクリアしなくてはいけませんでした。
例えば歴史画を描くときは、ある程度の大きさであることが推奨されています。
歴史画のテーマはギリシャやローマなど描いたものが多く、理想化された人体構成などの条件もありました。
ローマ賞を受賞したのは1774年になります。
それまでの間に4回経験し失敗した経験によって、反王政の気持ちを持つようになっていきます。
美術展に8点以上出品したなかで、古代の歴史を主題にした作品が高く評価されアカデミーの準会員になり、サロンに出品する資格を得ることになります。
その後王家の注文を受ける建築家の娘であるマルグリートと結婚して弟子を持つまでに成長します。
ジャック=ルイ・ダヴィッドは性格に難ありだった
ジャック=ルイ・ダヴィッドは、数々の有名な作品を製作していますが、父親に似た部分もあり短気ですぐにかっとなってしまう性格だったそうです。
肖像画などを見たことがある人なら、意思がはっきりとした顔立ちをしているのを知っているのではないでしょうか。
今までの芸術作品の破壊も進めたことで知られ、恐怖政治で知られたロベスピエールと協力しました。
罪もない人を死においやるなどの罪深いことを繰り返してきました。
その後、逮捕され、急減に拘留されます。
牢獄から出たあとはいきなりおとなしい性格になり、表舞台からも姿を消すようになります。
そこでナポレオンに出会い、皇帝の主席画家になりナポレオンの姿を描きました。
ただし、ジャック=ルイ・ダヴィッドの描いたナポレオンはあまりにも現実からかけ離れたものが多く、肖像画は本人に似ている必要がないとしています。
ナポレオンが失脚したあと、フランスにとどまることができなくなり、ブリュッセルに亡命します。そして生涯を終えたとされています。
ジャック=ルイ・ダヴィッドについては賛否両論ある画家でもあり、時代のなかで流されつつも生きた人物です。
立場の強いものには巻かれる主義だったなんて話しもあり、画家として優秀だったのはわかりますが、いろいろな問題があったのだなと感じずにはいられません。
そもそも新古典主義とは?
ジャック=ルイ・ダヴィッドを語るうえで外せない新古典主義ですが、18世紀から19世紀にヨーロッパで主流になったと言われる芸術のスタイルです。
それ以前はロココ様式が当たり前だったことを考えると、華やかな見た目が大きく変化したといっても過言ではありません。
古典的な芸術を模範として、全体の統一性を大切にしています。
形式的な美しさをより重視したことでも知られており、歴史画や神話、宗教画などが価値の高いものだと考えていました。
画家の誰が描いたではなく、歴史画を描いた人が高く評価される時代でもあったのです。
18世紀前半から半ばは、ロココ様式の全盛期としても知られていた時代です。
ロココは華美でとても華やかなものになり、女性を官能的に描いています。
装飾性に富んでいるまさに豪華絢爛なスタイルでした。
18世紀の半ばに入り、このロココ様式を軽薄として軽蔑する人たちも出てきます。
ルイ16世の時代になると、国家財政はとてもきびしいものになり、立て直しをジャック・ネッケルに託します。
ただ三部会に対して批判的な意見を持った平民によって、バスティーユ牢獄の襲撃を行い、フランス革命が始まります。
ルイ16世が処刑されたことで、ロココ文化も終わり新古典主義が登場したのです。
古代ギリシャやローマを模範としているなど、国民にとっても受け入れやすい形式でした。
新古典主義で活躍した画家とは
新古典主義で活躍した画家にはルイ・ダヴィッド以外でもさまざまな人がいます。
ロココの時代から画家をしていた人も、時代の変化によってスタイルを変えざるえない状況になりました。
新古典主義のなかで活躍した有名な画家について紹介します。
アントン・ラファエル・メングス
新古典主義の生みの親としても知られる人物になり、ギリシャの美術も反論に刺激を受けました。
画家としても高く評価されており、スペイン王のお抱え画家として活躍していました。
もともと父親もデンマークの画家であり、宮廷画家として活躍していました。
ドイツで生まれ育ち、13歳のときにローマに移り住み、絵画教育を受けるようになります。
ポーランド王のフレデリック・オーガスタスの主席画家としても評価されます。
さらには26歳でバチカンの美術学校の校長を務めるなど若くして成功を収めました。
アルバーニ邸の天井フレスコ画を製作したことでもゆう笑みになり、マドリードの王宮にある天井画も制作しています。
51歳で生涯を閉じますが、決して裕福な生活はしていなかったそうです。
子どもが20人もいるなど、父親の一面もあったのだとか。
ジョシュア・レイノルズ
イギリスの画家として、新古典主義を広めた人物です。
当初はロココに近い絵画を展開していました。
そのため、どちらに分類されるのか判断するのは、少し難しい点もあると思います。
イギリスの王立アカデミーの創設者としても知られており、アカデミズムの浸透に尽力した人物でもあります。
英国絵画のなかでも最も重要な人物として知られ、有名でした。
歴史こそ頂点だと考えていましたが、本人は肖像画ばかりを描いていたのだとか。
その理由がお金になるからとも言われており、計算高い一面もあったようです。
語学も堪能で頭が良かったことでも知られ、顧客には上流階級の人がたくさんいました。
技術面に優れていたのはもちろん、商売面でも確かな実績を残します。
分業体制を作るなどの効率を重視していました。
父親からの教養を強く受け継いだ画家です。
まとめ
新古典主義の考え方はロココ時代があったからこそ実現したものです。
形式がしっかりと決まっており、落ち着いた色調や歴史画など、ギリシャ文化を継承したものです。
新古典主義で活躍した画家は他にもたくさんいますが、誰もが高い目標を持って技術を絵画に継承していたのだと思います。
どれも素晴らしい作品ばかりです。