藤田嗣治の生涯は、藤田自身の「私の体は日本で成長し私の絵はフランスで成長した、私は日本とフランスを故郷に持つ国際人になってしまった、私はフランスでどこまでも日本人として完成すべく努力したい、私は世界に日本人として行きたいと願う、それはまた世界人として日本に生きることにもなるだろう」という言葉に集結しています。
この記事では、日本人画家、藤田嗣治の生涯と作品についてご紹介いたします。
藤田嗣治の生涯
藤田嗣治は明治19年に東京で生まれました。
父は医師でした。
母は藤田が5歳のときにこの世を去ります。
14歳で画家になる決心をして19歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学します。
卒業後は日本国内で作品の出品や助手をして過ごします。
27歳のときにフランスに留学します。
フランスでは、作品をサロンに出品し入選もします。
プライベートは離婚や出会いと別れ、さらには同棲と波乱万丈な生活を送ります。
43歳で帰国しますが、すぐに南米に旅に出ます。
その後は日本と世界各地を行き来しますが1941年藤田が55歳のときに始まった太平洋戦争で事態は変わります。
藤田は東インドシナに派遣されて作戦記録画の制作を担当します。
藤田は戦争画をたくさん描き、敗戦後には「戦争画家の責任」を問われることになるのです。
藤田は再び日本を出国しフランスに戻ります。
フランスに骨を埋める決意とともに洗礼を受けて藤田嗣治からレオナルド・フジタ(レオナール・フジタ)になるのです。
レオナルド・フジタは81歳でこの世を去りノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂で眠っています。
藤田の白い肌「乳白色の下地」はどうやって作られたか
藤田嗣治の作品といえば「白い肌」をイメージする人も多いのではないでしょうか。
藤田は白い肌のヒントを浮世絵から得ています。
藤田は、浮世絵に描かれている白い肌を油絵で表現する方法を考えます。
そこで思いついた方法がキャンバスの白色をいかすことだったのです。
キャンバスに膠の「アブソルバン」という下地を使い、タルクと乾性油を混ぜて半油性の下地を作ったと考えられています。
日本にいるときにはタルクが含まれているベビーパウダーを使っていました。
タルクを使った下地を作ることで表面がなめらかになり、白色をより引き立てるための墨汁の細い線も油分と反発することなく描けるようになったのです。
白い肌を引き立てるために使った墨汁も藤田独特の世界観につながっています。
藤田が描いた戦争
藤田嗣治は「アッツ島玉砕」という戦争画を描いています。
藤田の白い肌とは真逆の暗い色合いで戦争の悲惨さを描いた作品です。
遠目でみるとわかりませんが、この作品を近くでみると倒れた兵士の傍らに小さな紫色の花が描かれています。
日本のために戦い破れた兵士に対する藤田の思いがひっそりとあらわれています。
藤田は日本の従軍画家として戦地に行き戦争を描きました。
従軍画家は、戦地で勇ましく戦う兵士の姿を描くために派遣される画家です。
しかし藤田は戦地での現実を描くことで戦争の悲惨さを伝えようとするのです。
藤田の評判は、従軍画家になる前から日本では不評でした。
それでも日本の従軍画家として戦地に行った藤田に対し、日本画壇はさらに戦争責任を問うのです。
結局、1947年にGHQにより戦争犯罪者リストが公表されて藤田は戦犯容疑が晴れます。
しかし藤田は日本を離れ二度と日本に戻ることはありませんでした。
藤田嗣治からレオナルド・フジタへ
藤田は、日本を離れてフランスで画家として生きる決意をします。
1955年には夫婦そろってフランス国籍を取得します。
そして1959年73歳のときに洗礼を受けてカトリックに改宗します。
藤田が尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチから名前をもらい洗礼名はレオナルド・フジタになるのです。
洗礼を終えてレオナルド・フジタになってから藤田夫妻はパリ郊外の小さな村の一戸建てに引越しをします。
この家がのちに「メゾン=アトリエ・フジタ」と呼ばれる藤田の最後の家です。
メゾン=アトリエ・フジタの壁にはレオナルド・ダ・ヴィンチのミケランジェロが描かれています。
藤田嗣治は日本で日本人として生まれ、フランスに渡った後も日本人画家として活動していました。
藤田の独特な画風はフランスで脚光を浴びます。
しかし藤田の独特な外見などから、藤田は日本で批判されます。
祖国で批判された藤田の心は傷つきますが、祖国を思う気持ちは変わらずに髪を丸めて日本軍の従軍画家となり戦地に行くのです。
藤田は西洋画を学ぶためにフランスに留学します。
しかしフランスに出たことで日本人である誇りをもち、日本人として生きたいと願うようになったのです。
西洋の文化である西洋画の中に、日本の文化である浮世絵の白い肌を描くことで藤田は日本人である自分の存在をアピールしたかったのではないでしょうか。
おわりに
藤田は「政治もなく、戦争もなく、機械文明もなく、ただ呑気に暮らしてみたい」と言っています。
藤田は晩年「聖母マリアそしてフランスの大地からの祝福」という作品を描いています。
そこには藤田の家と藤田と妻がフランスの子どもたちや動物に祝福されている様子が描かれています。
藤田が求めていたものがこの絵にすべて込められているような気がするのです。